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| 2003-02-13 |
| 従軍慰安婦問題について |
グローバルネットメンバーはご存知のK氏から、連絡があり。「い よいよ大詰め」とのこと。某政党から某小選挙区への貼り付を検 討中だが、「県連左派」との折り合いを悩んでおり、そのネック の部分は私も同感とコメントした。 民主党は私のような歴史観を持った人間にとっては時々居心地が 悪くなったりするが、「意見が違う世の中こそ正常な世の中」を 認めてくれる土壌ゆえ、自分の意見を堂々と主張し続けることが 可能にことには感謝したい。 日本の国会議員が挺身隊集会に初 参加 挺身隊。正確には軍需工場での勤労動員で、慰安婦とは関係な い。大学の後輩に小林綾子がいる。おしんの子役で名を成した。 戦前は凶作が続けば身売りがあった。不幸な時代である。貧困の ため子守から、女給へ、女工、娼婦へと身を沈め、昭和33年まで 公娼制度があった。人権も何もあったものじゃない。貧困こそ総 ての原因だった。 世界中の軍隊に慰安所は切っても切れない関係にあったことは事 実。そして、戦地ゆえそこら辺りの得体の知れぬ組織に属するよ りは、軍隊のほうが安全だったし、良い収入になった。生きるた めに、、、。 強制連行はあったのか。証言は証言として尊重しなければならな いが、証拠とは言い切れない。告発したものは立証責任がある。 彼女らの立証責任は果たされているのであろうか。非常に疑問で ある。 従軍慰安婦としてもっとも有名なあの黄錦周への客観的な疑問。 高木健一著・「従軍慰安婦と戦後補償」の中で、「生家は貧し く、12歳のとき100円で売られ、ソウルの金持ちの家で小遣い、 1938年に女中をしていたときにその家の娘の身代わりになって満 州に連行され慰安婦になる。」 しかし、平成7年朝日新聞では、彼女は、「17歳のとき1939年に国 民徴用令で動員され、軍需工場に行くと思っていたが、着いたの は吉林の慰安所だった」と、証言が明らかに食い違う。 何故? 彼女はさらに「ラッパの音で目が覚め、将校の銃剣でチマを引き 裂かれた。最初の一年はその将校専属で、昼間は兵卒の看病もし た。3年目からは慰安婦にされ、クリスマスには特に相手が多かっ た。金は受け取らず、終戦を迎えると、日本兵は軍服を脱ぎ捨て 逃げていった。」 当時吉林は、満州の5大都市で、戦場ではなかった。私の実父(大 正元年生まれ・7年前他界)は当時吉林にいたこともある。実 に平和な街だったと言っていた。歓楽街があり、日本と同様公娼 制度があり、朝鮮人経営の妓楼が5軒存在。そんなマチに従軍慰安 婦がいるのだろうか。※三笠と父 はぁ〜、戦時中日本軍にクリスマスがあったのか?映画の見すぎも いい加減にしろ、コラッ。日本軍人は私服所有を禁じられてい た。だったら、何を着て逃げたのか。 朝鮮人女性に動員令が出たのは1944年で、1939年はありえない。 客観的に見て、証言が異なっているし、世情と食い違う。 痴漢冤罪が多い。証言が即証拠になってしまっている。「私が証 拠だ」も考えものだ。 謝罪すべきは謝罪すべきだが、証言を鵜呑みにして調べもせず、 あるいは疑わしきが存在するにもかかわらず、謝罪は、それこ そ、謝罪モノである。 ※小林よしのり・戦争論2を参考。 |