2004-01-14
弁当か、給食か

弁当か、給食か・・・。二本松市3中学校「選択制」スタート


以下は、私が某氏に宛てた手紙の一部。お弁当とは何かを考えて
みた。

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さて、本題です。
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「手作り弁当が中心という園の方針を誇りにしてきた○○○も、
頑固頭を変形させる時期が来たようです。」
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実に残念なことです。この文章を読んで、◎◎は「お弁当が中心
の幼稚園」に一つの価値を見出していたので、残念がっていまし
た。しかし、それを受け入れざるを得ぬ「経営という現実問題」
があるのだと、勝手に理解しています。


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「学校給食の果たす役割は終わった」として埼玉県庄和町は全小
学校の学校給食を来年度から、中学校は六年度(注・平成)から
廃止し、弁当持参に切り替える基本方針を決定した。父母の間か
らは反対の声が上がっており、波紋を投げかけている。(読売
92.6.19夕刊) 

しかし、この方針は、大変な反対にあって、撤回を余儀なくされ
てしまったようです。業者の巻き返しもあったらしいのですが、
それよりも何よりも、お母さん方の反発がひどかったようです。
ほとんど全校のお母さん方が、一致団結して、給食廃止に反対し
たと聞いています。なぜ、母親たちは、給食廃止に反対するの
か。子供同士でお弁当の比較がされたりすると困るとか、給食は
栄養のバランスがいい、などという理屈があったらしいのです
が、すべて親の都合にしか感じられない。

要するに弁当を作るのが面倒なだけだったのだと思います。

親と子供の対話が必要な時代、なにも対話とは言葉だけではない
ような気がします。 お母さんが手をかけて作ったものを食べると
いうのは、下手に何万語を費やすよりも、深く重い「対話」に、
語りかけになる。別に、手の込んだものを作る必要はない。忙し
いなら忙しいなりに、昨日の残りものでも、あるいはお総菜屋さ
んで買ってきたものでもいい。むしろその時々の状態が率直に反
映しているもののほうが望ましいと思う。お母さんが、明日はこ
の子に何を食べさせようかと考えて、工夫をし、そして一手間で
もかけたものが、弁当箱に入っている。それを子供が食べるとい
うのが、とても大事なのだと思います。

昨日、あんなに怒られたのに、今日は大好物を入れてくれたと
か、ここのところだいぶ疲れているのに、丁寧に作ってくれたと
か、少し飽きて手抜きが続いている、といったことを、考えるこ
ともなく感じる。こう言った無一言の対話と、感情のあやという
ものが、人間が人間であるということの、大きな部分を作るのだ
と思います。

確かに日本にも、給食が大事な時があった。昭和初年の大不況の
ときには、貧窮のために、弁当を持ってこられない子供がたくさ
ん出て、「欠食児童」などという一言葉が普及したことがあった
ようです。さらに、敗戦後には、深刻な食糧危機のなかで、文字
どおり児童が飢えるという事態があった。 こうした事態に対し
て、給食が大きな救いであったことは事実ではありますが、中流
の家庭でも、明日の食べ物に事欠くような状態で、さらにビタミ
ン不足などによる疾病の危険もあったので、学校給食がきわめて
重要だったのは当然のこと。

しかし、それはあくまでも大不況や敗戦といった事情のもとでの
ことであって、今日の日本とは無縁な話にほかならない。昔の、
貧しさのために弁当を持っていけない子供たちと、いくら豊かで
も弁当も作ってもらえない今の子供たちのどっちが可衰相なの
か、時にわからなくなることがあります。給食は便利だから導入
された制度ではなかったはずです。

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平和と豊かさの中に私たち「親と呼ばれる人達」は、とても大切
なものを置き忘れてきてしまったのではないでしょうか。
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また、先日は茶髪の児童をどう指導するかの議論もあったが、親
が茶髪なので苦労している教育者も多いようだ