![]() |
| 2005-06-01 |
| 償いは済んでいる・・・2 |
同じA級戦犯なのに絞首刑者、獄中死者と、服役後社会復 帰した者と「歴史の扱い」が違うのは如何なものか。これ は以前記した。 同時に我国にはA級戦犯はいないというのが私の理解。森 岡発言は全く正しい。それは国会で決定されている。昭和 28年8月に遺族等援護法が改正されて、連合軍により軍事裁 判で有罪とされたすべての人たちは、日本の国内法におい ては罪人とみなさないという判断基準が明確に示されてい る。これは選挙で選ばれた国民の代弁者の決定、つまり 「国民の総意」と理解している。 我国は法治国家である。ならば、私は先代達のこの決定を 尊重する。これは特別なことではなく、自然なことであ る。 さて、A級戦犯の遺骨の行方をご存知だろうか。 昭和天皇御生誕日4月29日に始められた東京裁判は、当時の 皇太子、今上天皇御生誕日12月23日にA級戦犯の内7名を絞 首刑にしたことで大きな区切りをつける。 ※私の父はこのことがよほど悔しかったのだろう。両日及 び、判決の出た翌日11月13日の新聞を保管してあった。こ の歴史的資料は長尾事務所に現存する。 マッカーサーは遺骨を遺族に返すことを禁止していた。BC 級戦犯で死刑となった彼らの遺骨もまた遺族に帰ることは 無かった。 12月23日7名の絞首刑を終え、遺体は1〜7番の「番号」がペ ンキで書かれた棺に納められ、「幌付きのトラック」で横 浜久保山斎場に運ばれた。焼かれた遺骨は7つの骨壷に入れ られた。ところが誰かが哀れんだのか線香が供えられた 為、米兵は突然鉄の鉢に移し替え鉄の棒で骨を粉々に砕き はじめた。骨を砕き「7つの箱」に移し変え、持ち去った。 そして、残りの骨は7人分纏めて斎場奥の共同骨捨て場に捨 てられたのだ。 これら一連の事態を事前に察知し、何とか遺骨を遺族の元 に届けたいと思っていたのが、小磯国昭の弁護士三文字正 平だった。 彼等は共同骨捨て場に捨ててあった誰のも遺骨ともわから ない7人が交じり合った「骨の粉」を掻き出し、久保山斎場 横の、興禅寺住職市川伊雄に託したのだ。当時はアメリカ の占領下時代。見つかれば重罪である。A級戦犯の名前など 書けぬゆえ、上海で戦死した三文字弁護士の甥で正輔の名 前で供養した。 昭和24年5月、あの12月23日のことを世間も忘れかけていた 頃、ささやかな慰霊祭が、遺族と共に5月3日、松井石根大 将が建立した興亜細亜観音で営まれた。供養はまだ三文字 正輔のままであった。 戦後、日本が主権を回復した後、興亜観音像のすぐ傍ら に、吉田茂書による「七志の碑」と刻まれた石碑がある。 裏面には絞首刑にされた7名の自筆が刻まれているのだが、 これは7人が絞首台に上る時、手錠がかかった状態で記した 最後の書なのである。 三河湾を臨む三ヶ根山にも遺骨がある。昭和33年松井大将 の出身地に遺骨の一部が移され慰霊碑が建っている。久保 山斎場は名も無き供養等がたっている。 繰り替えす。彼等は死をもって償ったということで、名誉 を回復できるのではないだろうか。死ねば神・仏になる、 これが日本の文化である。 遺骨を粉々に砕き、死者に鞭打つ異国の文化は、私には到 底理解できない。 |