![]() |
| 2006-12-23 |
| 毎年の天皇誕生日に考えること |
12月23日は天皇陛下誕生日。陛下におかれては、365日一日 も欠かすことなく、国民の平和、繁栄をお祈り頂いてい る。日本国民は心から感謝しなければならない。 そして、今日は、A級戦犯7名が絞首刑に処された日でもあ る。当時の皇太子、つまり今上天皇の誕生日にこれを当て てくる。これが彼らのやり方である。 改めて、歴史を振り返ってみたい。 ◎償いは済んでいる 韓中からは「謝罪、謝罪、謝罪」の要求ばかり。謝罪の次 は、「では、行動で示してもらおうか」ということになる のだろう。 百歩、いや千歩譲って、A級戦犯に戦争に関する全ての責任 があったとしようか。彼等は死をもって償いを済ませてい るのではないだろうか。死者にも尚鞭打つ国々には理解で きないかもしれないが、そう考えることは日本人の死生観 である。 A級戦犯は、靖国に合祀してある14人だけではない。起訴 されたA級戦犯は、荒木貞夫、板垣征四郎、梅津美治郎、大 川周明、大島浩、岡敬純、賀屋興宣、木戸幸一、木村兵太 郎、小磯国昭、佐藤賢了、重光葵、嶋田繁太郎、白鳥敏 夫、鈴木貞一、東郷茂徳、東条英機、土肥原賢二、永野修 身、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直 樹、松井石根、松岡洋右、南次郎、武藤章の28名。 さて、重光葵などは、7年の禁固刑の後、1951年に出獄後、 改進党総裁・日本民主党副総裁を務め、第一次鳩山一郎内 閣では外務大臣を務めている。 また、賀屋興宣も、1955年、仮釈放され、1958年正式赦 免。自民党公認で総選挙に立候補し初当選。1963年第2次池 田改造内閣に法務大臣として入閣。第3次池田内閣でも留 任。 つまり服役の後、名誉を回復している。 共に元A級戦犯である。我々は彼等をまた、彼らの家族たち を戦犯扱いしているだろうか。服役をし罪を償ったのだか ら、罪人扱いはしていない筈だ。 一方、絞首刑になった7人を含む、14人の名誉は回復されて いるのだろうか。遺族達はいまだに名誉が回復されていな いことをどう考えているのだろうか。 私達国民はこの矛盾を一度でも考えたことがあるだろう か。BC級戦犯たちも死をもって償った(言われ無き裁きを うけ)のではないだろうか。 「償いは済んでいる」と毅然とメッセージを伝えられない のは何故だろうか。 同じA級戦犯なのに絞首刑者、獄中死者と、服役後社会復 帰した者と「歴史の扱い」が違うのは如何なものか。 同時に我国にはA級戦犯はいないというのが私の理解。そ れは国会で決定されている。昭和28年8月に遺族等援護法が 改正されて、連合軍により軍事裁判で有罪とされたすべて の人たちは、日本の国内法においては罪人とみなさないと いう判断基準が明確に示されている。これは選挙で選ばれ た国民の代弁者の決定、つまり「国民の総意」と理解して いる。 我国は法治国家である。ならば、私は先代達のこの決定を 尊重する。これは特別なことではなく、自然なことであ る。 さて、A級戦犯の遺骨の行方をご存知だろうか。 昭和天皇御生誕日4月29日に始められた東京裁判は、当時の 皇太子、今上天皇御生誕日12月23日にA級戦犯の内7名を絞 首刑にしたことで大きな区切りをつける。※私の父はこの ことがよほど悔しかったのだろう。両日及び、判決の出た 翌日11月13日の新聞を保管してあった。この歴史的資料は 長尾事務所に現存する。 マッカーサーは遺骨を遺族に返すことを禁止していた。BC 級戦犯で死刑となった彼らの遺骨もまた遺族に帰ることは 無かった。 12月23日7名の絞首刑を終え、遺体は1〜7番の「番号」がペ ンキで書かれた棺に納められ、「幌付きのトラック」で横 浜久保山斎場に運ばれた。焼かれた遺骨は7つの骨壷に入れ られた。ところが誰かが哀れんだのか線香が供えられた 為、米兵は突然鉄の鉢に移し替え鉄の棒で骨を粉々に砕き はじめた。骨を砕き「7つの箱」に移し変え、持ち去った。 そして、残りの骨は7人分纏めて斎場奥の共同骨捨て場に捨 てられたのだ。 これら一連の事態を事前に察知し、何とか遺骨を遺族の元 に届けたいと思っていたのが、小磯国昭の弁護士三文字正 平だった。 彼等は共同骨捨て場に捨ててあった誰のも遺骨ともわから ない7人が交じり合った「骨の粉」を掻き出し、久保山斎場 横の、興禅寺住職市川伊雄に託したのだ。当時はアメリカ の占領下時代。見つかれば重罪である。A級戦犯の名前など 書けぬゆえ、上海で戦死した三文字弁護士の甥で正輔の名 前で供養した。 昭和24年5月、あの12月23日のことを世間も忘れかけていた 頃、ささやかな慰霊祭が、遺族と共に5月3日、松井石根大 将が建立した興亜細亜観音で営まれた。供養はまだ三文字 正輔のままであった。 戦後、日本が主権を回復した後、興亜観音像のすぐ傍ら に、吉田茂書による「七志の碑」と刻まれた石碑がある。 裏面には絞首刑にされた7名の自筆が刻まれているのだが、 これは7人が絞首台に上る時、手錠がかかった状態で記した 最後の書なのである。 三河湾を臨む三ヶ根山にも遺骨がある。昭和33年松井大将 の出身地に遺骨の一部が移され慰霊碑が建っている。久保 山斎場は名も無き供養等がたっている。 繰り替えす。彼等は死をもって償ったということで、名誉 を回復できるのではないだろうか。死ねば神・仏になる、 これが日本の文化である。 遺骨を粉々に砕き、死者に鞭打つ異国の文化は、私には到 底理解できない。 ※写真は今も巣鴨プリズン跡地に立てられた石碑。今日は 私の同志達も平和を願う慰霊祭に参加している。 |