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| 2007-07-03 |
| 司法的弱者の逆転現象・・・光市母子殺害事件裁判に思う |
光市母子殺害事件裁判は、司法のあり方、特に弁護士とは 何かを考えさせられる。そして、何よりもこの裁判は、 「怒り」しか心に残らぬという点で、特異な裁判といえ る。如何せん、ドラえもんが登場するだけに実に奇異な裁 判でもある。その演出は21人の弁護士ということになろ う。 21人の弁護士の誘導によって被告人は確実に死刑へ近づい てしまった。これは誰もが認めるところだろう。弁護士に よって、「更正の可能性」というを建前すら完全に閉ざし てしまった。この期に及んで、本村さんを睨みつけるよう な人間が、更正できるとは思えない。 最近の裁判を素人目に見ていると、本来は、被害者が弱者 の筈なのに、時には加害者(被告人)も弱者であるという理 屈が、時には悪い意味で罷り通っている思う。 以前、「司法的弱者の逆転現象」というコラ ムを記した。※関連・・オウム裁判と遺族たち ----- かつては被告人が司法的弱者であった時代もあろうが、今 は加害者過保護で被害者が司法弱者になる逆転現象が起き ている。 ----- この現象は、日常茶飯になってしまってはいないだろう か。ある番組で、犯罪被害者の母親が涙ながらに、「政治 家(法律)は、弱者の立場に立つものと思っていたが、実は そうではないのだとしか考えられない。」と訴えていたこ とが忘れられない。おそらく、この番組での、民主党H議員 の発言に怒りを禁じえなかったのだと思う。この議員の発 言を聞いていると、時に「弱者の逆転現象」を感ずるので ある。 少年法において、年齢で区切ることは、理に適っていると 思えるだけで、実は理に適っていない。例えば、17歳11ヶ 月31日と18歳0日。たまたま、書類上そうなるだけで、その 本人としては昨日と今日と精神的成長が明らかに認められ るというものでもない。要は、何が変わった訳でもない。 この際私は、年齢という問題よりも、裁判のあり方の重要 性が問われていると考えるのだ。法律で何でもかんでも決 めてしまうと、裁判に係わる者達の判断が無責任になる。 その時々の判断が重要だから、裁判が行われるのだと思 う。 司法のあり方が問われており、それを考える絶好の機会で ある。 被告人に加えて許すべからずは、無期懲役という判決を引 き出す為に、被告人に反省の心を持たせず、ドラえもんに その可能性を託した、21人の弁護士達である。被告人は死 刑判決を受けなければ多くの国民は納得しないであろう。 彼らの振る舞いは法廷に存在してはならないのだ。 「被告人は曲がりなりにも生きている。生きているから、 意思表示をすることが出来る。生きているから、一つの人 格として人権が認められている。しかし、殺された2人の母 子は亡くなっている。生きていないから、意思表示をする ことが出来ない。亡くなっているから、2つの人格として人 権が認められていない。」ということなのか?そういえ ば、前出の母親が「所詮、裁判では死人に口無しというこ とでしょうか」と呟いていた。 私は、被害者として亡くなられた方々の人権、被害者家族 の人権を優先できる人間になりたい。本村さんに安らぎの 日々が戻るように、2人の母子が安らかに眠りにつけるよう に、そして全ての犯罪被害者の魂が安らげるように、ただ ただ、祈るばかりである。 |