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| 「私が政治家を目指すことになった理由(わけ)」 |
| -政治という概念の封印- |
| 政治家を目指すようになったのはいつの頃からか?気がついたら「ここにいた」というのが実感である。 サラリーマン出身の私がなぜここにいるのかを考えたとき、おこがましくも、「自然」が私に課した使命なのかもしれないと理解するようになるには、あまり時間はかからなかった。それ以前は、漠然と自分では政界に憧れはあったものの、所詮どこか遠くの方での憧れでしかなく、少なくとも使命感とか、死生感、世界観、歴史観という深みにおいて考えてみる対象になろうとは夢にも思わなかった。ただ、私はいつも、先祖に頂いたこの命をどのように燃焼させるかを模索していた。 「おまえも、どんな人生を送るかお父さんには予想もつかないが、新聞記者だけには気をつけろっ」晩年の父の口癖だった。成人してから聞いた話だが、某準ゼネコンの総務・経理畑一筋に働いてきた父の周辺は、いろいろとかなり泥臭い世界だったようだ。所謂、高度成長期の社用族で、銀座赤阪のご接待のあとタクシーでいつも午前様。「タクシーのドアがバタンと閉まると20秒後に玄関をあけたものよ。」と母は言う。ある日、自宅に一本の電話が入る。毎日新聞の記者からの電話だった。電話アンケートという名目であったようだが、実は当時ロッキードで揉めていた某政治家と企業献金の裏取り調査だった。名前は出さないという約束は見事に破られ記事が出たその日の午後、父は社長室に呼び出しを受け企画室室長を命じられた。「左遷だっ。」と瞬時に思ったそうで、次の役員会で関連会社へと天下りが決定される。 私は父が50歳の時の子供ゆえ、父というよりは「師」という感覚が強かった。普通の家庭にはないことだと思うが、成人するまで「タメグチ」は絶対許されなかった。父は体験した日本の歴史を教えてくれる師であり、崇高な存在であった。その父が政治的な何か大きな流れに巻き込まれ、サラリーマンとして重大な事態に追い込まれてしまったという記憶だけが残っていた。私は当時高校2年で、まだまだレベルの低い認識ではあるが、「父を閑職へ追いやった政治と企業の癒着。政治とは恐ろしい世界である。」これが私の心の底にその後何年も生き続け、政治という概念が封印されることになる。 そういった父の影響で、昔から私の心には国家感というものが存在していたような気がする。社会科の授業でスピーチの順番が回ってきた時のこと。赤旗新聞が蔓延する職員室の中で、その教諭の机は一番奥の本棚の前。モグラとあだ名された彼は根っからのソビエト支持者だった。私の父は終戦を満州の長春で迎え、同窓生の中には、ソビエトが日ソ不可侵条約を破り南下して来たときに体を張って戦ったものがいたり、あるものは虐殺され、あるものはシベリアへ連れて行かれたと聞かされた。私はソビエト社会主義共和国連邦の諸悪について、5分間のスピーチのところ15分は喋り捲り、その教諭に完全に嫌われた。 父からは戦前の日本について実に多くの話を聞かされた。そして、なぜ戦争に突入せざるを得なかったのか、島国日本の苦渋の選択を切々と私に話してくれる父の姿には、子供心に得体の知れぬ危機感すら感じたものだ。父は満州鉄道の関連会社満州電業に勤務していた。部下には俳優の森繁久弥や芦田伸介がいた。「国策事業」という言葉を好んで使い、大東亜共栄圏構築の為に満州国を作り上げたという自負と、戦後愚かな侵略と蔑まれたことを晩年まで悔やんでいた。 「戦争のないこの平和で豊かな国に感謝をする、有難く思う、お蔭様と思う、これが日本人として大切なことだ。戦争を知らない世代だからこそ、国家を敬えっ、国家あっての我々の生活なのだ。」その時私は自分の名前のルーツを知ったのであった。西郷隆盛の「天(国家)を敬い、人を愛する」初代平民宰相の原敬から私の名前は敬と名づけられた。 私の日本の歴史に対する貪欲さは日に日に増していく。代々木ゼミナール白井義雄氏の授業を受けていたのだが、受験勉強ではあっても、詰め込みではなく、歴史というものが体系的に整理され小説を読むかのごとく次々と想像力が膨らんでいく。22年前そういう教育が予備校には存在していたのである。特に1902年の日英同盟から現代に至る授業は、まさに圧巻だった。一方学校は、日教組の方針かどうかはわからないが、きっと近代史をやりたくなかったのだろう、中学でも、高校でも江戸時代でおしまい。義務教育で近代史を学ぶことなく、高校でも江戸時代て終えてしまう現状を当時の私は生意気にも感じていた。「先生は近代史をやりたくないのではないか???? 」と、前出の教諭に、無謀にも詰め寄る嫌な生徒であったと記憶している。そして、「歴史を学ぶなら、京都!!!! 」という単純な理由から、立命館大学に入学することになる。大学のゼミでは戦後日本科学技術史を専攻し、島国日本を支えた「モノづくり」を研究した。また、VAN(付加価値通信網)、コンピューターネットワークつまり今日のインターネットの存在を知ったのもこの頃だった。 その後は普通に就職し、普通にバブルを経験し、社会人として組織に取りこまれ、気がつけば「日本とは、、、、」などと自問自答することなど微塵もなくなっていた。 しかし、「自然」はそれを許さなかった。1995年秋、私の封印された政治への興味が一気に噴出す瞬間がやってきたのだ。 |
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