「私が政治家を目指すことになった理由(わけ)」
 
-台湾総選挙視察-
2001年11月29日〜12月2日までの、台湾総選挙現地視察は「民主主義とは勝ち取るもの」ということを私に教えてくれた。 

金美麗女史率いる我々一行は8000人の観衆を前に、大会の壇上に立っていた。正直言って何と表現したらよいのかわからない。民衆の噴出すエネルギー、志、憤り、魂の叫び声に、止めどもなく涙が出てきた。台湾団結連盟の党大会は異常な盛り上がりで、李登輝の演説は圧巻だった。力強く、猛々しく、リーダーシップに溢れ、御年80歳にはとても見えない。李登輝が台湾!台湾!と連呼する。そう、台湾という国は実はつい最近まで台湾には存在しなかったのだ。

 我々日本人はこの国を台湾と教えられてきた。しかし、30数年に及ぶ戒厳令下で、台湾という言葉は使用できなかった。もし、使おうものなら、すぐさま牢獄へぶち込まれ、社会復帰すらままならない。金美齢女史、同じ理由でブラックリストに載り、つい数年前まで、帰国が許されなかった一人である。国民党による徹底的典型的な恐怖政治下であったのだ。李登輝総統時代ですら不可能であったらしく、民進党発足以後使用されるようになったと説明したくれたのは、世界海協領司街海事長官の黄清風氏。会場で私の隣で通訳してくれた。因みに会場は蒋介石を記念した公園。これも、ひとつのメッセージか?

 「大東亜戦争後、日本の統治から逃れて正直言ってホッとした。しかし、後に来た中国人は乞食(放送禁止用語)のようで、台湾人の絶望感は相当だった。レベルの高い、道徳心に溢れた教育施してくれた日本に親しみの情はあるが、尊敬していた日本が戦後台湾に取った政策は許せない、日本は台湾を見捨てたのだっ。」とも語る。なるほど、小林よしのりの台湾論にも同じことが書いてあったと思い出す。

 民主主義は国民が勝ち取るもの。台湾人は国家のアイデンティティー確立に賭けて、政治に関心を持っており、それに向けて実行している。日本人は、、、、、、、、、、。与えられた民主主義は民主主義とは言えないと確信した。ホテルの部屋で、大前研一「一新塾」事務局長森嶋氏と語り合い、そういう結論に達した。 

翌日は民進党大会に出席した。「手の感触は暖かで柔らかだった」と、かなり自慢させていただく。陳水扁と握手した日本人は数少ないはずだ。民進党大会はさすが政権与党なだけに昨日の5倍はいたであろう大群集。李登輝とは違ったリーダーシップを感じた。 

さて、台湾の2.28事件はご存知だろうか。俗に言う白色テロである。1947年大東亜戦争後台湾に入ってきた国民党が、有識者を中心として2万8000人(国民党発の数字であるから実際にはもっといたであろう)が虐殺された。しかし、戒厳令下の台湾で、この事実は1990年まで語ることを許されず、台湾人ですら知らないものがいたという。世界歴史上稀に見る自国民に対する政府の大虐殺事件が風化されようとしていたとき、陳水扁が登場した。 

陳水扁は台北市長時代、事件当時放送局として利用されていた場所に2.28記念館を作った。同時に弾圧者の特定も行ったが、彼らを処罰することはなかった。我々はその2.28事件記念館を訪れた。

 闇市でタバコを売っていた女性が国民党につるし上げられたことが発端で自然発生的にデモが行われた。「お前らの言いたいことはしっかり聞いてやるから役所へ来い」という甘い言葉にデモ隊は役所へ。そこで待ち受けていたのは機関銃の発砲であった。それを目の当たりにした氏が怨恨を込めて喋り捲る。2.28事件はこうして起こったのだ。9人一組が手の甲、足首を針金で突き刺され繋がれ、一人一人銃殺され海へ転落。あるものは銃殺されたあと、生殖器を切り取られ口に詰め込まれ絶命していた(さすがにこのことは小林よしのりでも掲載できなかったはずだ)という。 

氏は民進党が生まれるまでの恐怖を語ってくれた。そして、民主化へ一歩進んだこの台湾で風化されようとしていたこの事実を、語部として後世に伝える余生を過ごす道を選んだ。李登輝、陳水扁はやはり台湾の英雄であった。

 そして、その数時間後、陳水扁と握手が出来るとは夢にも思わなかった。金美齢女史の横断幕が効いたのか、ぐいぐいと舞台前方まで押しやられ、もう目の前。「汗が服を着ている」とても表現したくなるギラギラした陳水扁が目の前に立っていて、無我夢中で握手をした。この選挙で民進党、台湾団結連盟で過半数を取らなければ台湾は駄目になる。この危機感が嫌がおうにも政治選挙へ気持ちを走らせる。政治とは国民にとって身近な存在であるはずなのだ。台湾国民は私にそれを体をもって教えてくれた。

 「長尾敬さん」と大きな声で金美麗女史が私を呼ぶ。舞台正面に押し出されハッピーバースデーの大合唱。現地台湾の皆さんが120人集まり我々一行をアンバサダーホテルでパーティーで迎えてくれたのだが、その時の出来事だった。心から感激した。39歳は私にとって忘れられない誕生日となった。 

70歳以上の方々の日本語の上手いこと上手いこと。そして、エネルギッシュでとにかく元気でつやつやしている。76歳で終戦を看護学校生としてむかえた王美彗さんが「日本人は尊敬できた。教育も産業も文化もすべて日本のお陰。でも、日本が戦争に負けて台湾は捨てられた。蒋介石はそれはそれは酷いことをした。私たちの財産も全て私物化し、2.28を行った。そして、戦後の日本は台湾に冷たい。わたしは悲しい。台湾シーレーンを知っていますか?日本と台湾は運命共同体なのです。台湾は日本にもっと仲良くして欲しいのに、李登輝さんを日本で治療させなかったり、、、、、、。」と、貿易会社に勤める李素珍さんが会話に割り込み「河野洋平許せません。田中真紀子さん何をしているのかわかりませんッ!!!!」・・・・・・・・。シーレーンという言葉がでてきたことに驚くと共に、返す言葉がない・・・・・。 

ご年配者だけではない。会場には20代から40代が全体の4割を占めている。中には全く日本語がわからない人さえ日台友好のために出席している。司馬遼太郎「台湾紀行」のモデル、日本でもベストセラーになった「日本精神」の著者、そして、小林よしのりの「台湾論」でも有名な、蔡焜燦氏とお話が出来た。声がデカく、少々スケベで、とにかく学生など若者を次世代台湾のために育てている。当然言わずと知れた、台湾産業界の重鎮である。ご一筆願ったら快く「日本よ!永遠なれっ・・・蔡焜燦」と記してくれた。 

同日昼には、傳雲欽氏43歳の事務所を訪ねていた。台湾大学卒の弁護士で所謂エリートなのだが、陳水扁・民進党に危機感を感じて無所属で立候補した。如何ともし難い、汚いお姿で熱く語ってくれた。「民進党も以前は我々のように地下放送局を使ったりの活動をするほど熱い志を持っていた。しかし、政権与党になってしまった途端、中国にスリより金儲け主義者を後方支援するようになってしまった。」台湾は中国なしには経済が成り立たなくなりつつある。「だからここにきて、独立を強く叫ぶどころか、独立という言葉すら口にしなくなった。陳水扁・民進党は中国に取り込まれてしまっている。だから、今回陳水扁が大勝利したとしても、中国はミサイルを打ち込まない。まぁ、わたしが総統になったらすぐミサイルは飛んでくるだろうけれどねっ、、、はっはっは、、。」理解できる。 

李登輝はそういった水面下の動きを察知して、台湾団結連盟を結成したと聞いたことがある。陳水扁を筆頭として民主化路線をまず作り上げ、同時並行させる形で、独立を叫べる政党を育てていく。傳候補の指摘に納得した。「声を大にして言いたい事。日本は台湾独立を支援する義務がある。日本は50年間台湾を植民地として統治した。教育・産業・農業を育ててくれた。しかし、戦後台湾を捨てた。捨てられた台湾はボロボロになった。50年間統治したのだからその後も責任があったはずだ。だから、日本は台湾独立を支援する義務がある。」前述の王さんと同じメッセージである。これこそ台湾の日本に対するメッセージではないか。 

「李登輝の志はまだ生きている。陳水扁は危険だ。」「石原慎太郎、、、ベーリーグッド」「田中角栄、真紀子ダメ」彼の言うとおりに田中真紀子は国会議員としての品格すら問われている昨今である。 

台湾の方々には失礼を承知で記すが、台湾は、あの蒋介石率いる国民党統治から、民主主義へと方向転換できたのだから、日本もこの混沌とした政治・経済・国際関係状態から脱却できないはずはないと確信したのであった。ただ、唯一致命的なのは日本には「平和病」が蔓延していることだった。 

私は間違いなく、国民が国家を変えていくその瞬間に立ち会ったのだ。ますます、政治熱が強くなり、その頃には既に「決意」が固まっていた様に思う。
 
 
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